マテウシュ・モラヴィェツキ ポーランド共和国首相 声明
01.01.2020
20世紀、世界には、病的な全体主義思想の名目で虐殺された、数億人もの人々の想像を絶する苦しみと死がもたらされました。ナチズム、ファシズム、コミュニズムが原因の大量死は、私たちの世代の人間にとって自明の事柄です。こうした犯罪の責任が誰にあるのか、そして、いかなる同盟が、第二次世界大戦という人類史上最も殺人的な対立の端緒となったのか、もまた自明の事柄です。
残念ながら、あの悲劇的諸事件から時間が経過するにつれて、私たちの子どもたち・孫たちが事件について知るところも少なくなっています。それ故に、とても重要なのは、私たちが、第二次世界大戦についての真実、その首謀者と犠牲者についての真実を引き続き声高に言いつづけるで、歴史を偽造しようとするあらゆる試みに抗うことなのです。
こうした悪行についての記憶は、大戦最初の被害国であるポーランドにとって、とりわけ大切です。私たちの国は、ヒトラーのドイツとソ連のロシアによる軍事侵攻を一番初めに経験しました。自由ヨーロッパ擁護のために戦った最初の国が、他ならぬポーランドなのです。
とはいえ、これら悪の強国に対する抵抗、すなわち、ポーランドの英雄的行動の想起ではありません。それよりずっと重要ななにものかです。この抵抗は、二つの全体主義に対して闘争を挑んだ、今日の自由・民主主義ヨーロッパ全体の遺産です。自らの政治的目的のためにこれらの事件の記憶を踏み潰そうとする者がいる今日、ポーランドは、真実の擁護に立ち上がらなくてはなりません。自らの利益を守るためにではなく、今日のヨーロッパの本質を守るためにです。
1939年8月23日に署名された「リッベントロップ・モロトフ条約」は「不可侵条約」ではありませんでした。これは、ナレフ・ヴィスワ・サン川を国境に(一月後、国境線は、9月28日に締結された「第三帝国とソビエト社会主義共和国連合の国境と友好に関する条約」の結果、ブク川に移動しました)、ヨーロッパを二つの勢力圏に分割する政治・軍事的同盟でした。これはその後数年間に国境線の両側で行われることになる、想像を絶する犯罪への序幕でした。
ヒトラーとスターリンの同盟は、閃光のように素早く実行に移されました――1939年9月1日、ナチス・ドイツが西・南・北側からポーランドを攻撃し、9月17日、ソ連は東側から攻撃をしかけて、同様のことを行いました。
9月22日、ブク河畔ブジェシチ(現ベラルーシ:ブレスト)で、ナチス・ドイツとソ連の共同の勝利を祝う大パレードが催されました。不可侵条約調印国がこのようなパレードを行うことはありません。行うのは、同盟国と友好国です。
ヒトラーとスターリンについてもそうです――両者は長い間、同盟者であっただけではなく、まさしく盟友だったのです。この友情は大輪の花を咲かせました。なんと大戦勃発より前に、150人のドイツ人共産主義者グループがナチス第三帝国からソ連に逃亡すると、1939年11月、スターリンは彼らをあたかも「贈り物」のようにヒトラーに引き渡したのです。それによって、彼らを確実に死刑台へと送り届けたのです。
ソ連とナチス第三帝国は、常に、緊密に協力しつづけました。1919年11月27日、ブジェシチ会議において、両国公安警察メンバーは占領されたポーランド領における、ポーランド独立組織撲滅のための協力の方法と原則を話し合いました。内務人民委員部(NKVD)と親衛隊(SS)兵士の協力をめぐる話し合いは、引き続き、ザコパネとクラクフ(1940年3月)などで開かれました。話し合いの主題は、不可侵ではなく、ポーランド共和国国民の人民排除(すなわち「虐殺」)とポーランド殲滅のための共同の同盟的行動でした。
ポーランド分割占領へのスターリンの協力とスターリンがドイツに供給した天然資源なくして、ドイツの犯罪機構がヨーロッパを支配することなどあり得なかったでしょう。ソ連からドイツへの物資輸送列車が運行したのは、1941年6月21日、すなわち、ナチス・ドイツがそれまでの同盟国に攻撃をしかける前日でした。スターリンのおかげで、ヒトラーは、失敗を恐れることなく諸国を制圧し、全ヨーロッパ大陸のユダヤ人をゲットーに収容して、人類史上最大の犯罪の一つであるホロコーストの準備をすることができたのです。
スターリンは、東方で、犯罪的行動を展開しました――国家を一つまた一つと服従させ、ロシアのアレクサンデル・ソルジェニーツィンが「収容所群島」と呼んだ、強制収容所組織を構築していったのです。数百万人もの共産主義権力反対者が奴隷的・殺人的強制労働によって、存在を消された収容所です。
共産主義の犯罪は、第二次世界大戦以前にすでに始まっていました――1920年代初めに数百万人のロシア人が餓死したこと、ウクライナとカザフスタンの何百万もの人々が絶命した大飢饉、70万人近くの政治的反対者と一般のソ連市民(ほとんどの場合はロシア人)が虐殺された大粛清、さらには、主にポーランド系ソ連市民が銃殺された内務人民委員部(NKVD)のいわゆる「ポーランド作戦」によってです。子どもも女性も男性も死を宣告されました。内務人民委員部統計によれば、「ポーランド作戦」だけでも、11万1千人がソ連共産党員によって計画的に銃殺されました。当時、ポーランド人であることは、ソ連において、死刑判決または長期流刑を意味していました。
こうした政策の継続が、ソ連のポーランド侵攻(1939年9月17日)後に行われた犯罪でした。カティン、ハリコフ、トヴェリ、キエフ、ミンスク、さらには内務人民委員部刑務所やソ連帝国僻地で、2万2千人以上のポーランド人将校と指導者階級代表者が殺害されたのです。
共産主義の最大の犠牲者はロシア市民でした。歴史家の推計によると、ソ連だけで2~3千万人が虐殺されました。他の文明国家ならば庇護の対象になるはずの戦争からの帰還捕虜を待ち構えていたのも、死とラーゲリでした。ソ連は彼らを戦争の英雄として扱うどころか、裏切り者としたのです。死、ラーゲリ、強制収容所――これが赤軍の兵士・捕虜へのソ連の「お礼」でした。
こうした犯罪すべての責任は、ヨシフ・スターリンを筆頭とする、共産党の指導者にあります。第二次世界大戦勃発から80年後に、今日のロシア大統領が政治的目的からこの人物の名を回復させようとするさまざまな試みは、20世紀史についてごく基本的な知識を有するすべての人に、疑念を引き起こさせずにはいません。
プーチン大統領は、ポーランドについてたびたび虚偽の発言をしてきました。それを常に、完全に意図的に行ってきました。通常こうした事態に至るのは、モスクワの政権がその行動に対して国際的な圧力を感じているときです。しかも、(歴史的な意味ではなく)このうえなく現代的な地勢的状況における圧力です。最近数週間に、ロシアはいくつかの深刻な敗北を喫しました――ベラルーシを完全に屈従させようとする試みが失敗に終わり、欧州連合はあらためて、違法なクリミア併合への罰則適用を延長し、所謂「ノルマンディー」4か国閣僚会合の話し合いの結果、これら罰則が撤廃されるどころか、同時期にさらに強化されることになったのです――加わったのはアメリカで、それによってノルド・ストリーム2の実現はより困難になりつつあります。同時に先ごろ、ロシア人スポーツ選手は、ドーピング行為に対して4年間の活動停止になりました。
私は、プーチン大統領の言葉を、これらの問題を隠蔽する試みと見なします。ロシアの指導者は、自らの非難が事実と無縁であることを十分に承知しています――ポーランドにはヒトラーの銅像もスターリンの銅像も存在しないからです。こうした銅像が私たちの国土にあったのは、ヒトラーの第三帝国とソ連のロシアという侵略者・犯罪者がそれらを建造していた時代のことだけです。
世界史上最も残忍な犯罪者の一人、スターリンの最大の犠牲者としてのロシア国民は、真実を享受する資格があります。私は、ロシア国民は自由な国民であり、いかにプーチン大統領がスターリンの名誉回復に努めようと、スターリン主義を拒絶するものと深く信じています。
刑の執行人と犠牲者、残酷な犯罪の遂行者と無辜の人民または被侵攻国家を混同してはなりません。犠牲者の記憶のために、共通の未来のために、私たちは真実を守らなくてはならないのです。
閣僚委員会委員長(内閣総理大臣)
マテウシュ・モラヴィェツキ