タデウシュ・ロメル - 初代駐日ポーランド共和国大使
16.11.2022
最近迎えた「外交の日」の機会に、初代駐日ポーランド共和国大使であったタデウシュ・ロメルのプロフィールをご紹介します。
タデウシュ・ルドヴィク・ロメル(Tadeusz Ludwik Romer 1894-1978)は1937年10月1 日、公使館が大使館に格上げされたのに伴い、初代駐日ポーランド共和国大使に就任しました。1940年、日本の敦賀港に、東ヨーロッパからの戦争避難民が到着しはじめました。主にヴィリニュスとカウナスから、さらにはナチス・ドイツに占領されたポーランドのさまざまな地域の出身の人たちもいました。駐カウナス日本領事の杉原千畝によって発行された日本通過ビザだけを持って、ウラジオストクを経由してやってきた人が大半でした。避難民たちは、その多くがポーランドのユダヤ人であり、ポーランド大使館領事部の庇護を受けました。この目的で、1940年10月に、ロメル大使は、「戦争犠牲者救済のためのポーランド委員会」を設立し、その委員長には妻のゾフィア・ロメルが就任しました。委員会の代表者は、中継港の敦賀で、避難民たちを待ち受けました。そこから、ユダヤ人団体JOINT並びにHICEMの助力を得て、ユダヤ人を最寄りの神戸、横浜または東京に案内しました。委員会メンバーは、家族と連絡を取るための仲介を行い、これが最も重要でしたが、パスポートとヴィザの入手手続きを助けました。ロメル大使は、自ら、ユダヤ人の通過ヴィザ延長とカナダ、米国、パレスティナ、南米諸国への出国ヴィザ発行に尽力しました。駐日ポーランド在外公館の閉鎖に伴い、タデウシュ・ロメル大使は、家族と大使館職員とともに、1941年11月1日に、特命大使として上海に到着し、ただちに、避難民庇護の仕組みづくりに着手し、それまでまだ日本に残留していた避難民の庇護に取り組みました。当時登録された、所謂「上海記名帳(上海リスト)」には、救済された人々に関するデータが記されています。これはかなりの可能性をもっていえることですが、ロメル大使の支援と献身的活動がなければ、杉原領事が発行したヴィザとズヴァルデンディク領事からの証明書を持っていた、多くの避難民は逮捕されていた、場合によっては生命を失っていたかもしれません。